前途多難な小林節の新党「国民怒りの声」

記者会見が一人だけだったのは、呼びかけた者たちに断られたからではないのか。

たぶん・・・・

メモです。


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前途多難な小林節の新党「国民怒りの声」 - 立憲主義の言葉の減価償却
昨日(5/9)、憲法学者の小林節が政治団体「国民怒りの声」の設立を発表、夏の参院選に比例区から立候補する意向を表明した。昨日のネットは、木下ちがやと山本夜羽音の騒動と並んで、この話題で持ちきりとなっていた。私が昨年6月にブログに上げた「小林節を首班とする立憲連合政府の閣僚名簿」の記事が頻回にTwで参照され、何やら、恰もそれが小林節自身の構想のように早合点されて紹介されていた。私の記事に直接リンクするのではなく、閣僚名簿の画像だけを切り取った形で回覧されていて、誰がこのアイディアを提起したかは触れられず、クレジットが付されておらず、その点は著者として遺憾に思う。ネットではこのニュースは関心が高かったが、夜のテレビ報道ではほとんど取り上げられず、テレビの前で肩すかしを食らった感じを受けた。反町理とか後藤謙次とか、テレビ論者のコメントから政界の反応を窺うことができなかった。総じて言えば、マスコミにとってインパクトのない、政局屋にとって魅力のないニュースだったのだろう。その評価は妥当だと言える。何と言っても、出馬が決まっているのが小林節だけで、10人の政治団体と言いつつ、他に立候補する名前が決まってないのだ。


候補者はこれからネットで公募すると言う。この準備不足の説明には失望させられた。本来、記者会見で立ち上げを発表するなら、そのローンチイベントに著名人の顔を何人か並べ、賑々しく華々しくやらないといけない。世間の耳目が集まり、テレビ報道のトップニュースになるような重量感で演出しなくてはいけない。そうでないと国民の期待は集まらない。私はてっきり、岩上安身とか飯田哲也が脇に構えていて、候補者名簿の中に入っているものとばかり予想していた。投票まであと2か月だが、時間的に間に合うのだろうか。ネットを見ると、新団体の看板が小林節一人だけだった場合、100万票取れるかどうかだという厳しい観測が示されている。私もこの見方に同意で、小林節一人だけの新党の場合は、小林節が思い描いているようなブームの旋風を起こすことはできず、投票率を底上げする要素にはならず、既成政党を拒絶している無党派層の心を動かすことはできないだろうと考えている。もっと他に豪華なビッグネームを揃え、斬新な理念と政策を大きく打ち出さないと、単に立憲主義という言葉だけでは無党派は食指を動かさないだろうと、悲観的に見ざるを得ない。記者会見が一人だけだったのは、呼びかけた者たちに断られたからではないのか。

悲観的な想定をする理由の第一を挙げれば、小林節のイメージがこの半年間で完全に「野党共闘」と同じ範疇に溶け込んで埋没してしまっていて、「野党共闘」とは異なる独立した一つの勢力のシンボルという認識が一般にできなくなっているからである。民進党と共産党が一つになった「野党共闘」、小林節はその「野党共闘」のシンボルであって、「野党共闘」を支持しない層に訴求して共感を調達する政治的性格をすでに失っている。「野党共闘」と一心同体の存在だ。何より、そのキーワードは立憲主義に他ならない。「野党共闘」の旗印と同じだ。だから、比例で「国民怒りの声」に投票する有権者は、本来は民進党か共産党か社民党か生活党に投票する人々であり、そこから削られて票が流れるという具合になる。民進党も立憲主義を言い、共産党も立憲主義を言い、小林新党も立憲主義を言い、結局、同じ立憲主義のバスケットの中から一つを選ぶという投票になる。立憲主義のスローガンで本当に票が取れるのだろうか、新しい票を開拓できるのだろうか、その点は実は大いに疑わしい。というのは、現在の日本の政治における立憲主義という言葉は、反安倍・反安保という意味しかなく、そのレベルでの概念定着しかないからだ。

立憲主義は、きわめて皮相的というか、表面的な政治スローガンに意味が回収されてしまっている。たとえば、現時点で、NHKの世論調査を見ると、安倍政権を「支持する」と答えた層が45%も存在する。「支持しない」と答えた層は33%しかない。立憲主義という言葉を政治変革のイデーとして積極的に受け止めている層は、全体の33%しかなく、45%にはその説得力が全く届いてないのだ。それが現実だ。昨年からずっと言い続けてきたことだけれど、立憲主義について、国民の間で議論の機会があまりに少なすぎたことがある。一人一人が立憲主義の概念について学び、樋口陽一の本を開いて熟読し、学習会をやり、個々人のレベルで立憲主義を自分のものにするという思想の内面化のプロセスがなかった。それは立憲主義じゃないとか、オレはこうだと思うとか、そういう侃々諤々の日常の討論の反復を通じて、個々が立憲主義を自分の思想にすればよかったのだけれど、つまり、昭和21年から22年の民主主義のような形で、立憲主義の限界も含めて、豊かに立体的に、国民が自家薬籠中のものにすればよかったのだが、そうした経験はなく、単に「野党共闘」のスローガンとして、反安倍のフレーズとして活用され普及するにとどまった。

そのことが、今、一人で新党構想を持って現れた小林節に対して、カリスマ登場の期待感が起こらず、小さなニュースになってしまっている原因ではないかと思われる。昨年6月の時点で、小林節が立憲主義の新党を打ち上げれば、それは空前の影響と余波となって大地を震撼させたことだろう。要するに、小林節も、立憲主義の言葉も、半年間で減価償却が甚だしくなっているのであり、政治的な価値と影響力を著しく落としてしまっているのだ。政治的にマンネリズムに陥ってしまっているのである。立憲主義の言葉は、この一年間、それは前提的なことだ、常識の範疇だ、知らない人間が無知すぎるのだと、そう上から教育されて刷り込まれてきた。実際には、中学や高校の社会科の授業で立憲主義など一度も教わったことがないのに、その事実が捨象され、誰もが知っている普遍的な真理という扱いをしなければならなかった。だから、個々人が立憲主義の概念と内面的に格闘しておらず、格闘した後のコミットという碇づけをしていない。したがって、個々に立憲主義への深いコミットはなく、政治の流行用語ぐらいの感覚で相対化され、その延長線上に小林節への今の評価があるのである。秋以降、共産党と行動を共にし、「国民連合政府」の宣伝に一役買い、すっかり左翼リベラルの世界の論客になってしまった小林節には、昨年6月の圧倒的なパワーと存在感がない。

小林新党を提案した立場として恐縮だが、「国民怒りの声」の前途は多難だと思う。


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