京都市長選の衝撃の民意を分析する - 共産党はしばき隊と手を切れ

京都市長選で共産候補がダブルスコアで敗北

メモ

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京都市長選の衝撃の民意を分析する - 共産党はしばき隊と手を切れ
2/7に投開票された京都市長選の結果は衝撃的だった。事前の予想で現職の優勢が伝えられていたため、事実上の一騎打ちの相手である共産新人が勝つ可能性はないと思っていたが、蓋を開けてみれば、ダブルスコアで共産候補が敗れる結果が出た。歴史的惨敗。この大差は意外としか言いようがない。4年前の同じ選挙のとき、構図はやはり共産vs非共産の戦いで、3万2000票の僅差で共産候補が敗れている。投票率はほぼ同じ。8年前の同じ選挙では、やはり同じ対決の構図で、共産候補は非共産候補(自・公・民・社)を521票差まで追い詰めていた。京都は共産党の聖域で、伝統的な固い支持基盤を維持し、選挙では常に無類の強さを発揮してきた。3年前の2013年の参院選でも、定数2の京都選挙区で共産は民主を蹴落として議席を獲得している。京都市長選で共産候補がダブルスコアで敗北するなど、私の常識ではおよそ理解不能な出来事の発生だ。一体何が起きたのだろう。代々木の党本部では幹部が眉間に皺を寄せて緊急会議し、困惑と動揺の中で選挙分析に没頭しているに違いなく、共産党がどのような総括を出すか、その中身が注目される。左翼リベラル全体にとって、今回の選挙結果は深刻で重大だ。

候補者には問題はなかった。京都の共産候補らしい模範的な人物像であり、京都の共産党を代表する実績と貫禄のリーダーで、何か不足や瑕疵や欠落があるということはない。オーソドックスで安心感がある。訴えていた政策やキャッチフレーズも、共産党らしくスタンダードなもので、さすがに京都の共産党は余所と違うと思わせる、堂々とした風格と自信を漂わせたものだった。共産党はこれでいいし、京都の共産党はこうでないといけない。ズバッとストレートを投げ込んでいい。変化球は期待しない。HPを見ると、「教え子を再び戦場に送らない」の伝統的標語が掲げられ、個人的に非常に好感が持てる。「憲法市長」という直球勝負のコピーを掲げたのも、本人のこだわり(信念・信条)によるのだろう。悪くない。ネットの中では、安保法や憲法など国政の問題ばかりを主張し、市政の地道な課題を後回しにしていたという批判があるが、HPを見るかぎりその誹謗は当たらない。昨年夏からの国政の状況を睨み、効果を入念に計測し、共産党はこの政見と政策をデザインしたのだ。共産党の公認候補が、参院選を半年後に控えたこの時期に、全国注目の政令指定都市の首長選で政策を訴えるとき、安保法と憲法の問題を抜きにするなどあり得ない。

それでは何が問題だったのか。私は、京都市長選の結果もまた、八王子市長選と同じ民意が表出した政治だと分析する。八王子市長選は、予期せぬダブルスコアでの共産系(左翼リベラル)候補の惨敗に終わった。11月の大阪ダブル選の結果の延長でもある。明らかに、昨年秋に共産党の勢いが止まった。これまで、少なくとも2013年の参院選から党勢を伸ばし続け、3年間上げ潮にあった共産党が、2015年11月の大阪ダブル選で頓挫し、勢いが失速して下降と低迷の局面に入っている。無党派層の支持を受けなくなった。風がフォローからアゲインストに変わった。共産党および左翼リベラルへの逆風が、共産党の本拠地である京都でも吹き荒れ、そのまま押し流されてしまったというのが今回の選挙結果の真相だろう。だから、共産候補の敗北の理由は、八王子市長選での五十嵐仁の惨敗のそれと同じだ。無党派層の票が離れたのであり、共産候補に票を入れてもいいはずの無党派層が、今回は棄権に回ってしまったのだ。2012年の市長選時に較べて、共産候補は6万票失っている。有権者の意識を変えた要因は、夏からのSEALDs運動と「国民連合政府」戦略にあると私は分析する。一言でいえば消極的不支持、あるいは不信の気分に他ならない。

無党派の市民の多くは、安保法案が阻止されることを願い、テレビ報道に釘づけになり、野党の国会での抗戦に期待し、法案反対の運動と世論が盛り上がることを祈っていた。安倍晋三の支持率が30%を割り、法案を断念する進行を待ち望んでいた。だが、7月に入る頃から様子がおかしくなり、テレビから憲法学者が消え、子どものような学生集団が主役になり、国会前のデモばかりにマスコミの焦点が当たる状況になる。反安倍・反安保の説得力を作っていた憲法学者の立憲主義の講釈が消え、入れ替わりに「デモ=民主主義」の教説が宣伝されるようになった。その現象の中心付近にいた黒子の高橋源一郎が、安保法の成立は諦めているが、若者がデモで民主主義を活性化させたことに意義があるなどと本音を吐き、SEALDs運動の正体を視聴者が訝しみ、政治戦の結末に期待を持てなくなった。そして国会に目を凝らすと、民主党も、共産党も、本気で法案阻止に動いているようには到底見えず、民主党は裏で自民党とニギって長丁場のプロレス政治をしているように見え、共産党は民主党に付き合いながら党利党略を虎視眈々と狙っているように窺われた。9月19日、案の定、無党派市民の不安が的中する形となり、共産党が出し抜けに「国民連合政府」を発表する。

一般市民の視線からは、共産党は狡猾に、安保法案の政治戦を党利党略に利用したとしか見えないのだ。そして、SEALDsのデモについては、売名と就活のために安保法案の政治機会を踏み台にし、マスコミで脚光を浴びることそのものが彼らの目的だったとしか映らないのだ。その疑念が真実かどうかは、テレビや新聞や雑誌の報道からは分からない。マスコミや論壇に溢れる言説では、SEALDsはとにかく輝く救世主であり、賛辞のみがびっしり書かれていて、その偶像の実体を不審視する声はネットの中の一部にしかないから。だから、無党派市民のSEALDs運動に対する受け止めは、主張や立場の字面は肯定するけれど、素性と動機に納得できないのでコミットできない、というものだろう。無党派市民は基本的にマスコミ不信であり、SEALDsのようにマスコミが一斉に宣伝し、共鳴へと世論を誘導する政治対象には警戒を覚える。そうした、都市の無党派層のSEALDs運動への猜疑や共産党の党利党略への不信感が、9月以降、少しずつ蓄積され意識化されてゆき、11月の大阪ダブル選での判断となり、1月の八王子市長選と2月の京都市長選での選択となったのではないか。つまり棄権であり、消極的不支持の民意の表明である。

京都市長選では、共産候補と陣営選対は、SEALDs運動を牽引した学者たちの応援メッセージを看板にし、有権者に訴求する戦略で臨んでいた。中野晃一、小林節、佐藤学、岡野八代などの顔を並べ、彼らのエンドースを紹介・強調している。八王子市長選の選挙手法と同じだ。つまり、京都市長選での共産候補の戦いが市民連合の「野党共闘」と軌を一にしたもので、SEALDs運動の延長上の戦いだという意義を積極的に訴えている。街宣車にSEALDs関西のメンバーが立ち、歩道の有権者に支持を訴えていた。SEALDs・市民連合との一体性を強調し、そうすることで無党派の票を得ようとしていた意図が分かる。しかし、八王子市長選と同じく結果は裏目に出た。SEALDs・市民連合は票にならないのだ。私はTwでずっと、「国民はSEALDsを支持していない」と言い続けてきたが、二つの市長選の結果を見て、その観察と結論にさらに確信を深めるに至った。民意の証明だ。SEALDs・市民連合が応援した選挙は、昨年11月以来、一つの例外もなく連戦連敗を続けている。しかも意外な大差で。このことは決して偶然ではなく、上に指摘したように内的に関連した意味があり、無党派層の複雑な葛藤と政治心理の構造がある。今後、市民連合が関与し、SEALDs学者が応援した選挙は、同じように候補が大差で負ける結果になるだろう。

もう一つ、私の直観的な仮説だが、昨年11月のしばき隊事件が世論と選挙に微妙な影響を及ぼしているのではないかと推測する。11月のしばき隊事件とは、はすみリスト事件と新潟日報事件の二つの事件のことだ。マスコミ報道では取り上げられなかったが、ネットでは大きな騒動になった。この事件を境に、これまで反在特会の果敢な行動組織で「正義の味方」の表象だったしばき隊が、一転して、一般市民をなりふり構わず人権侵害する狂暴な公共敵に変わった。しばき隊の本性が露わになった。しばき隊を政治学的に意味づけするなら、70年代の部落解放同盟とのアナロジーで構図化することが、おそらく最も正鵠を射た分析となるだろう。集団を本質づけるキーワードは、暴力と利権である。その名前のとおり、しばき隊は暴力団そのものだ。マイノリティの立場を政治利用して権勢を拡大する方式が同じである。瓜二つ。70年代、解放同盟は社会党と癒着し、地域社会での社会党の権力(自治労・日教組)を、台頭する共産党から防衛する暴力装置となった。が、そのことで社会党は市民の信頼を失って没落を早めることになる。死に至る生活習慣病となった。組織体力のなかった社会党は、用心棒である解放同盟の暴力に依存したのだ。それから40年、歴史は流れ、今、しばき隊と共産党が当時の解放同盟と社会党の関係と相似形になっている。何と弁証法的で皮肉な図だろう。

比喩を敷衍し、当時の地域社会を今のネット社会に置き換えてみよう。当時の、解放同盟が拠点化した労組と自治体行政を、今の、しばき隊が根拠地とするアカデミーとマスコミに置き換えて見取図を構成したらどうか。ネットの中では、しばき隊は評判が悪く、一般には嫌われているけれど、マスコミの世界(朝日、毎日、東京)では、しばき隊は市民社会の英雄として美化されている。反在特会という一面だけに光が照射され、ネットでの陰惨で苛烈な暴力行為や資金ルートの問題には目が伏せられている。あの頃、地域社会では解放同盟による政治がらみの暴力事件が頻発していた。最も大きな暴行傷害事件として残っているのは、恐ろしい被害を出した八鹿高校事件である。今、ネット社会では、しばき隊による暴力事件 - 侮辱と脅迫、デマと中傷、嫌がらせ、個人情報晒し、集団リンチ、強制排除 - が組織的に横行している。だが、ほとんどの事件は被害者の泣き寝入りで終わっていて、名誉毀損の刑事事件や訴訟にまでは至っていない。解放同盟の横暴と跳梁は、政党としての社会党の生命力を一気に衰退させた。しばき隊と解放同盟の類似性への着目が当を得た分析視角であるとするなら、しばき隊に街頭やネットでの暴力装置の実力を依存している共産党は、間もなく70年代の社会党と同じ運命を辿ることになろう。想起しないといけない事実は、八鹿高校事件はマスコミで報道されなかったことだ。しばき隊事件もマスコミは報道しなかった。

マスコミが報道しなかったからといって、その事件が政治に影響を与えないということはない。共産党は、しばき隊との関係を清算するべきだ。そうしないと社会党と同じになる。選挙で負け続ける。しばき隊への運動のアウトソーシングと依存症をやめ、党内に有能な理論家を育て、自前で市民運動を開発することだ。共産党に助言と勧告をしたい。


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