「結末を考えよ」

文章が長いのだがメモ

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「結末を考えよ」 - ニーメラーの教訓と弱すぎる戦争への危機感
ニーメラーがナチスについて語った有名な警句は、今でも繰り返しネットで目にする。「ナチが共産主義者を襲ったとき、自分はやや不安になった。けれども結局自分は共産主義者でなかったので何もしなかった。それからナチは社会主義者を攻撃した。自分の不安はやや増大した。けれども依然として自分は社会主義者ではなかった。そこでやはり何もしなかった。それから学校が、新聞が、ユダヤ人が、というふうに次々と攻撃の手が加わり、そのたびに自分の不安は増したが、なおも何事も行わなかった。さてそれからナチは教会を攻撃した。そうして自分はまさに教会の人間であった。そこで自分は何事かをした。しかしそのときにはすでに手遅れであった」(未来社 旧版 P.475)。ニーメラーはルター派教会の牧師で、ナチスに抵抗して1937年に強制収容所に入れられ、生還後にこの悔恨の言葉を残した。ところで、今日、この言葉は政治に関心を持つ現代人の常識の範疇となっているけれど、出典は何で、どこから広く知られるようになったのだろうか。実は、この痛切な反省を日本に紹介したのは、丸山真男の『現代政治の思想と行動』である。1961年の論文「現代における人間と政治」の中に、ミルトン・マイヤーの著書からの引用として紹介されている。原文を日本語に翻訳したのは丸山真男だ。

この言葉を日本の政治学の一般知識にしたのは丸山真男である。が、このニーメラーの警句を説明するWiki情報には、なぜか丸山真男についての言及がなく、この国の政治学で最も多く読まれてきた古典的著作で紹介しているという記述がない。この事実はきわめて不審で、偶然だとすれば奇妙であり、何か動機があって悪意で丸山真男を捨象したのではないかという疑いを禁じ得ない。丸山真男の『現代政治の思想と行動』というのは万事がこんな感じで、ビートルズの名曲のように「これがあれだったのか」と既視感の衝撃を覚える発見が随所に散らばっている。アクトンの「絶対的権力は絶対的に腐敗する」の言葉(P.444)もそうだし、トクヴィルの回想録の「ひとが必要欠くべからざる制度と呼んでいるものは、しばしば習慣化した制度にすぎない」の一節(P.576)もそうだ。まさに政治学の宝石箱。さて、丸山真男はこの論文で、ニーメラーの言葉を引用した後で続けてこう書いている。「こうした痛苦の体験からニーメラーは、『端緒に抵抗せよ』(Principiis obsta)而して『結末を考えよ』(Finem respice)という二つの原則を引き出したのである。彼の述べているようなヒットラーの攻撃順序は今日周知の事実だし、その二原則も(略)言葉としてはすでに何度も聞かされたことで、いささか陳腐にひびく」(P.476)。

「けれどもここで重要なのは、あの果敢な抵抗者として知られたニーメラーさえ、直接自分の畑に火がつくまでは、やはり『内側の住人』であったということであり、(略)すべてが変わっているときには誰も変わっていないとするならば、抵抗すべき『端緒』の決断も、歴史的連鎖の『結末』の予想も、はじめから『外側』に身を置かないかぎり実は困難だということなのである。しかもはじめから外側にある者は、まさに外側にいることによって、内側の圧倒的多数の人間の実感とは異ならざるを得ないのだ」(P.476)。今の政治状況と思想状況を念頭に読んで、実に本質を射抜いた半世紀前の説明である。右傾化はしていないと詭弁を言う朝日新聞、ネットの中の右翼分子は少数だと言い張る小熊英二。これらの言説は、窓の外を走る山手線を京浜東北線の中から見ている乗客の視線と感覚であり、二つが並行して走っているから、相手も止まっているように見えるのだ。錯覚である。「外側」に立てば、「内側」の恐るべき異常を感知して恐怖する。実際には、Twを見ても、政治について書き込まれているネットの意見は圧倒的に右翼の占有率が高く、TwもGoogleの検索も、何もかも無意味なほど政治は右翼の情報でびっしり埋め尽くされている。右翼のテキストしかない。孤独を耐えて「外側」に立たないと、このことは実感することができない。

上の丸山真男の指摘のうち、今回、特に注意を喚起して強調したいのは、ニーメラーの教訓の二つ目に挙げた「結末を考えよ」である。ネットの中に、ニーメラーの言葉を警句として言い挙げる者は多く、最近はその頻度が上がっている感がするが、多くの場合、ファシズム(安倍晋三の暴政)の被害に遭うのは、最後はそれと無関係だと安易に思っている普通の市民だぞという意味で援用している。そのときは、特に言論の自由の文脈で警鐘として論じていることが多い。その語り方は議論として決して間違いではないのだが、左翼リベラルがニーメラーを援用する言論は、ネットのコピペの頻用によって減価償却され、「ああまたそれか」と慣れきってしまった感が否めず、使い古された一般論になって説得力を衰えさせている感を否めない。警句としての意味の重さを少しずつ失っているのではないかと、そう懸念するのは誤解や邪推だろうか。それは兎も角、「結末を考えよ」という教訓は、まさに今、刮目して仰ぐべき問題だろう。安倍晋三を批判する左翼リベラルにおいて、あまりに「結末」についての予測や想像が不十分だからだ。結末を考えていない。率直に言わせてもらって、1-2年後に戦争が始まるというリアルな判断と想定がなく、その危機意識がない。現状、ネットの左翼リベラルが安倍晋三を批判する態度は、時々刻々の政局への反応と野次のレベルに終始している。

一昨年末、安倍晋三は特定秘密保護法を成立させた。そのとき、左翼リベラルは大きな反対運動を起こし、「海外で戦争を始めるための立法」だと言って抗議した。法案の採決は阻止できなかったが、抵抗する側に危機感と切迫感が相当に強かったのは事実だろう。何と言っても平成の治安維持法だから、その拒絶は当然と言える。その直後、J-NSAが設置されて始動し、半年後に集団的自衛権の解釈改憲が断行された。秘密保護法も、J-NSAも、集団的自衛権も、安保法制も、戦争を始めるための国家措置である。ひめゆり部隊の生き残りで語り部をやっていた女性が、高齢で引退することになったというニュースの中で、まさに遺言のように語っていたが、戦争というものは為政者が準備して計画的に始めるものである。突然、天から降って湧いたように発生するものではなく、国家が着々と準備して、軍事衝突を起こして戦時に入るものだ。準備には時間がかかる。法律と制度が要る。予算と人員が要る。国民の意識も変えないといけない。私から見て、左翼リベラルの戦争に対する危機感は、1年半前の方が大きかった。喉元すぎて熱さ忘れたのか、むしろ、時間を追う毎に鈍感になっていて、今は危機感が薄くなり、「右翼なんていないから大騒ぎするな」と安心理論を喧伝するようになった。安倍晋三が政権を取って2年半、どれだけ戦争準備が物理的に進んだことか、そのことを正面から問うて覚醒を促す者はほとんどいない。

戦争は中国とする。安倍晋三と右翼は中国を標的にし、中国を軍事攻撃してPRCを解体しようと思惑している。そのことは、石原慎太郎が正直に堂々とホンネを語っている。中国と戦争を始めるということがどういうことか、左翼リベラルはよく考えるべきだが、真摯に客観的にその予想を立て、進行と結末を論じた者は誰もいない。絵空事だと思っているのか、米国が止めに入って未然に防がれると本気で思っているのか、日中戦争を次の現実(リアル)として思考し論究する者がいない。左翼リベラルたちは、安倍晋三の政治を「ファシズム」の語句で非難するけれど、その全体をファシズムの概念で捉えるという認識がなく、次の段階への視角がない。次に来るのが戦争だという危機感がない。ファシズムの定義を政治学的に整理するという作業をしない。立憲デモクラシーの会という学者の集まりが、集団的自衛権の政局のときに組織され、華々しく情宣されたが、1年経って会の活動は不活発で、何やら開店休業のようである。内部で侃々諤々の議論がなされ、市民や政党に向けて政治突破の提案提言が用意されているという様子がない。せめて、今の政治がファシズムなのかどうか、次に何が起き、日本はどうなるのか、その程度のことは議論して学者集団として公に意見発信するべきだろう。結末を考えないといけない。日本と中国が開戦したらどうなるか、イマジネーションをしないといけない。その説得力を作れれば、9条護憲は抽象的なスローガンではなくなる。

戦争が目前に迫っているのに、反ファシズム統一戦線の呼びかけがなく、その必要を焦る声すら上がらない。そうした惰眠の状況に異を唱える者も現れない。左翼リベラルは思考停止していると言わざるを得ない。


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